「面倒くさい」と言ってしまえば全てが面倒くさくなる(2022.1.13)

健康

ようやくのことですが、再び本を読んだり、ネット動画を長時間視聴できたりと、知的な活動を継続して取り組むことができるまでに、体調・情緒が安定してきたと思います。

一方で、日常生活のちょっとした雑事に思えること、例えば、洗濯物を洗濯機を使って洗って干したり、体を風呂場で洗ったりということが、まとめて言ってしまえば、「面倒くさい」という表現で思えてきてしまうのです。

お風呂は億劫感があって風呂場に脚が入っていかないのですが、洗濯などはそれでも、3日に一度くらい、自分のものを自身で洗濯機にかけて、脱水されたものを干してはいます。

今日は、この雪の降る季節、部屋干しをせざるを得ないなかで、家族の洗濯物に割り込む形で、あとから僕の干した洗濯物のやり方がひどかったので、母に注意されたのですが、最初は反論してみたものの、結局は自分の配慮のなさを母に謝る結果となりました。

それでも、僕は洗濯を干すことに関して、「面倒くさい」けれども、それを口に出してつぶやき程度でも、そう言ってしまえばどうしようもなくなってしまう、と思い、口にすることはありませんでした。今回の一件も、もし、自分が洗濯物を干すことにもっと心を込めて取り組めば、母から注意されることも無かったのだろうと思いました。

それで、「なんて、自分はこんなにいろいろなことを面倒くさく感じてしまうのだろうか」と情けないやら何やらで、持病のせいでもないだろうに、と思ってしばらく嘆かざるを得ませんでした。

ですが、母からあとで、「そりゃ、面倒くさい、といえば、万事が面倒くさいよ」と言われました。「でも、その中に、作業とか取り組んでいる過程で何か発見するという経験はあるでしょう?」とも言われました。

僕も、ごもっとも、と思ってその言葉を聞きました。面倒に思っていることに前向きに向き合うことは、案外続けていくことが大変かもしれないし、先述の洗濯のように、回数を重ねてきていても、なかなか心がこもっていかないこともあるかもしれない。だけれども、自分の持病が少しずつ、亀歩きのようだけれども、改善しているように、日々の生活に関わる作業を、軌道に乗せていきたいと思いました。

タイトルとURLをコピーしました